双子座眼鏡男子の生活と記録〜誰もが自分の人生という物語のヒーローである〜

高校卒業後、2年間の自宅浪人期間を経て、大学入学。そして、社会人として今を生きる自分自身の記録。

【喪失の語り#3】

「居場所」

2022年3月4日、金曜日。午前10時12分。晴れ。

 

少しずつ春が近づいている気がする。

ただ、それは花粉の訪れでもあるため、その点で油断は禁物である。

このご時世だと、コロナなのか風邪なのか、はたまた花粉症なのかという部分が紛らわしくもある。何より健康第一を心がけたい。

 

では、本題の続きへ移ろう。

 

前回#2の最後は、ちょうど深夜に母のスマートフォンに電話が入ったところ。

 

深夜2時30分前くらい。

電話が鳴り、一気に眠気から覚める。

僕も母も、「きたか、、、」という心境であった。

父が入院していた病院の看護師からの電話だった。

「心臓の鼓動が弱まっているので、病院に来ていただきたいのですが」と看護師は言う。

「はい」と返事をし、病院に向かうことを伝え、電話を切った。

僕と母は、すぐに身支度を整えて病院に向かう準備をした。

近くの家族も起こして、一緒に病院に向かった。

 

その半日前は呼吸器に繋がれながらも、息をして、鼓動も安定していた父。

しかし、病院に駆けつけたときには、父の心臓は止まっていた。

 

そんな父を目にする前、病室の前でのこと。

一人の看護師さんが「どこで葬儀をされるかお決めになっていますか?」と。

電話で鼓動は弱まっていると聞いてはいたが、その父が息を引き取ったのかはまだ確認はしていない状態で、そのような質問をされるとは思っていなかった。

ただ、その質問への違和感や疑問を看護師さんへ投げ返すこともなく(後々振り返って、あの瞬間で聞くべきではないのではと家族同士で話していた。)、「まだです」とだけ答えた。

そして、父と対面した。

 

繋がれた心電図の波形は直線で、父も呼吸をしていなかった。

 

昨日に面会をしたのは2回。

自分が記憶していたことで、握った父の手は1回目と2回目でもわずかに体温は違った。2回目のときの方が冷たかった。

 

周りの家族は、そのときもまだ父が奇跡的に目を空けることを祈っていた。僕も祈りたかったが、その時の手の感覚から、父は少しずつ弱っていっているように思っていた。

 

そうして、父はこの世を去った。

母をはじめ、僕やきょうだい、心配をしていた家族たちを残して。

 

深夜3時前の出来事であった。

 

医師から父の死を告げられ、僕たちは一度待合室へと移動した。

その間に、父は身なりを整えてもらうことになった。

 

と同時に、僕は何か物思いにふけることもなく(できず)、先にあった看護師さんからの言葉通りに葬儀屋へ連絡をすることになった。

 

実家からそれほど遠くない場所にある葬儀社。

祖父のときにも父が頼んでいたところ。まさかこんな早くに自分が連絡することになるとは思ってもいなかった。でも、そうやって事を進めていくしかなかった。

 

もしもの話、たらればの話になるが、

父がもっと年老いて、何かの病かなんかで死を予期させるような状態であったら、それに伴う心理的な、実際的な準備はまだできていたのかもしれない。

 

今回の出来事は、心配事の一つ、恐れていた事態としての思いごとであった。

それが現実のものとなってしまったというのは、本当にまさかの出来事であった。

 

普段耳にしていた有名人のそれや、テレビドラマのそれら。

他人事ではなく、実際の身に起こるとは思いもしなかった。

 

 

葬儀社の手配が落ち着き、担当の方が病院に来てくださるまでは、小一時間ほどの時間があった。そこでやっと僕も腰を下ろして、家族と話すことができた。

 

ただ、話すと言っても、そこに前向きな言葉などはなく、

先に自ら逝ってしまった父への思い、迷い、不安などなどの言葉であった。

 

僕は、自らの喉を潤したいことと、家族もと思い、自動販売機で人数分の温かいお茶を買った。別に買わなくても良かったけれど、あの時間でできることはそれくらいだった。あとは、母や家族の話を聞いたり、寄り添ったりすることであった。

 

時間は経ち、葬儀社の方が来てくださった。

そのときに、来てくださったのは祖父の葬儀を担当してくださっていた方だった。

その方も、今回の父の死を知って、驚かれていた。

僕たち家族は、家族以外の父を知る方と出会えて少しの間ほっとしていたように思う。日々、仕事として事情はどうあれ亡くなった方やその家族と向き合われていることはすごいことだと思う。

個々人に差はあるだろうが、駆けつけてきてくださった葬儀社の方は、とても落ち着かれており、ゆっくりとお話をされ、それ以上にこちらの話も親身になって聞いてくださった。そのことにあのときは救われていた。

 

亡くなった父は、その後一度家へと戻る(帰る)はずだったが、ここでも立ち止まる出来事は起きた。父と同じ病室にいた患者さんが、コロナの濃厚接触者にあたることがわかったのである。検査などで陰性がわかったが、医師等での最終確認ができるまでは、父は霊安室(死体安置所)へとどまることになった。

 

その際の、葬儀社の方との話だと、最悪の場合は、父は家にもどってこられないとのことであった。ただ、現状は陰性であるから、そのケースには及ばないだろうということであった。これが、もし2年前のことであったら、まだコロナへの対応策もままならなかった状況であり、おそらく父とは火葬場でしか会えなかったかもしれない。だから、そういう点ではまだ救われたと思う。実際に、その後、父は無事に家に帰ることができた。本当に良かった。

 

 

 

さて、このパートもここらへんで一度休憩しようか。

 

ちなみに、今日の僕はまだ仕事を休んでいる。

仕事を休んで、あの先生の研究室にいる。そこで、この文章を書いている。

仕事には、来週の月曜日には戻ろうと考えている。何度も何度も言うが、僕の仕事へ行くこと、働くこと、生活をしていくこと、生きていくことは、今回の父との死別という出来事の有無に関わらず、僕の一生のテーマのひとつである。

 

父の死は、僕の人生の出来事のひとつとして、大きな影響をもたらした(今もなお、、、これからも?)が、自分の人生は続くのである。

 

目下の課題といえば、やはり働いてお金を稼ぐ必要はあるのだ。

職場に、上司に、職員の方々に、迷惑も心配もかけているという事実に変わりはなく、加えて、僕の不安定な部分を知る家族にも心配や迷惑をかけている。

その事実を受け止めること。不安定な自分を受け止めること。

今はそうかもしれない。でも、今からのことはこれから変えていける。

否定せず、責めることもせず。謝ったり、お礼を言ったりはあるだろう。

言う以上に、行動で示していくことには時間も必要になるだろう。

それでも、焦らずに行こう。

僕は、僕という人生は、僕にしか歩めないから。それは、一人ひとりそうであるから。

今日も生きている。感謝の気持ちを忘れずに。

家でもなく、職場でもないが、安心できる“居場所”を与えてくださった先生に感謝である。

そのおかげで、今という時間に自分の喪失体験と向き合うことができているから。

社会人としては不完全(完全なことはないけれど)だけど、僕は今日も生きている。

(12時11分2022/03/04)