双子座眼鏡男子の生活と記録〜誰もが自分の人生という物語のヒーローである〜

高校卒業後、2年間の自宅浪人期間を経て、大学入学。そして、社会人として今を生きる自分自身の記録。

【喪失の語り#2】

「手放すこと」

今日は、2022年3月2日。午前11時14分。晴れ。

前回の記事から2日間が経過した。いったい休憩とはなんぞや。

 

前回の続きになるが、寄り道の多い文章でどこから書こうかと迷子中。

忘れてしまった部分もあるし、2日前に書こうとした着地点でさえ、あやふやになってしまったようだ。あいまいな自分。人間はあいまいな生きもの。あいまいになりやすい生き物かもしれない。あいまいな世界に生きている。

 

過去の話ばかりになったから、改めて比較的新しい過去の話に戻そうと思う。2日前の記事で、その時も訳あって仕事を休んでいると書いたが、今日現在も平行線である。つまり、休んでいる状態。

 

ただ、忌引休暇というか服喪休暇というやつの範囲になる。

 

ここから先の文章に少々ショッキングかつ重たい文章になるかもしれない。その感想や印象は、読み手の方の受け取り方に委ねる他ないのだけれど、念のため書いておく。誰かに見せること、公開することなのか、是非はわからないけど、今の自分はここに書き出すことで、今の感情を手放そうと思う。

 

僕の2つ目の投稿で、1月頃は仕事に行けていない状態だと記していたのだが、その後は凸凹ではあるが、復帰することができていた。つい最近までは。

 

復帰の背景には、きょうだいなど家族の心理的な支えや自分自身の生活の工夫などが挙げられる。特に大きかったのは、実家で暮らす父があまり体調が良くなく、自分自身は実家を出ているため、できることは最早、自分がしっかり仕事に行くことで両親や家族に心配をかけないことくらいしかなかった。そのことを、きょうだいからも言われていた。「仕事に行くことが親孝行」であると。そして、僕の働く部分の不安定さについてはきょうだいだけが知ってくれているカタチで日々が過ぎていった。

 

そんな矢先に、父が亡くなった。

自死であった。自宅の寝室の物干しにベルトで縛って、首を吊ったらしい。

らしいというのは、このことは一緒に住んでいた母をはじめとした家族から聞いたからである。それを目撃したのも同じである。

その日の午前中の出来事だったらしく、母は救急に連絡するのが精一杯だったが、別の家族がベルトをハサミでなんとか切った。その後、救急隊によって心臓が動き出した。そして、父は病院へ搬送された。

 

僕が父の顔を見たのは、その日の午後。

 

先にもあげた、今の僕にできることは1日1日働くことだという思いで、いつも通りその日も働いていた。もうすぐお昼休みに入るというころ、職場に一本の電話が入った。

「親戚の方から電話ですよ」と、職員さんから電話を受け取る。その瞬間に、僕は嫌な予感がしていたけど、的中してしまうとは思ってもみなかった。

 

なぜ的中してしまうかというと、その日以前にも父は心を病んで、自宅で何度か自殺企図を試みていたからである。そのことは、家族から状況として知らされていた。そのような状態にあって、父もメンタルクリニックに母や家族と行ってみたり、服薬治療にあたったりしていた。主治医との相性もありセカンドオピニオンに向けて動いていた矢先であった。コロナ禍も災いしたのか、家族が見た感じでは明らかに痩せこけた父でいても、病院での検査で数値的な以上が無ければ入院も難しかった。薬の副作用なのか、睡眠不足をはじめとした心身の不調なども重なった。

 

昨年末に父と出会ったころも体調があまり良くなかったのだが、年があけてのこの2ヶ月の変化は大きかったように思われる。

 

病室にも、基本的に面会は1人ずつ。入るにもコロナ感染防止の観点から、防護服まども必要であった。

 

父は、呼吸器をつけた状態で息をしていた。目を閉じていた。そこに僕の知る父はいなかった。居たのは、血の気の引いた顔色で目を閉じて、呼吸器をつけた父の姿だ。

 

今こうして文字に起こしていると、その時を鮮明に思い出す。思い出すことが、僕自身の心にどう作用するかはわからないけど、今はそうすることがいいように思う。

 

誰からの同情も必要とせず、ただ文字に起こして、自己対話している感覚。

 

その日は、結局、父の状態(脳死状態)は変わらず、病院の待合室の待機時間一杯まで母と二人残り、一度実家へ戻ることになった。もし、父の状態は急変したときは、担当看護師から電話連絡が入ることになっていた。

 

その夜、僕は母と身を寄せ合って眠りについた。

自分は元より、あまりにもショッキングな現場を目にした母は、一人で寝るのが怖かったのである。近くにいながら、父の行為を止められなかったこと、助けられなかったことを悔いていた。そんな母を僕は1ミリも責めようと思わない。母以外の家族も責めない。責めたところで父は生き返ることはない。

そんな状況を言葉にするだけでも、そうとうな負荷であるのだから。まだ、実際に目にしていない僕や遠くで住んでいた家族はその点ではダメージは小さいと思う。もちろん個人差はあるだろうが。

 

母と同じ布団で寝るなんていつぶりかと変に冷静に考える自分がいた。記憶にある部分で思い出す限り、小さいときでさえあの日ほど近くで寝たことは無かったように思う。

 

枕元に自宅電話の子機、母のスマホを音量を上げたままで置いて眠りについた。

 

父のことをいろいろ思い出しながら目を閉じた。そうしてウトウトしてきて、眠りについた。

 

だけど、スマホで起こされた。

 

午前2時25分ごろだったか。

 

 

 

ここで一度休憩しよう。

実は今日は、前回の記事で書いた大学時代の先生に会いにいっている最中。その電車の中である。もうすぐ電車が着きそうだ。

さて、どんな話をしようか。とりあえずお昼ごはんにしよう。

行ってきます。

続きはまた次回。(12時21分2022/03/02)