双子座眼鏡男子の生活と記録〜誰もが自分の人生という物語のヒーローである〜

高校卒業後、2年間の自宅浪人期間を経て、大学入学。そして、社会人として今を生きる自分自身の記録。

【喪失の語り#1】

「喪失の語り」

「喪失」「喪失体験」等々。

生きていく過程で、人は様々な喪失体験と遭遇する。

冒頭の「喪失の語り」とは、心理学者であり京都大学名誉教授でもある、やまだようこ(山田洋子)さんのことばだ。また、新曜社から『やまだようこ著作集第8巻 喪失の語り 生成のライフストーリー』として1冊の本が出版されている。

 

この本は、4,300円プラス税というお高い本なのだが、私にとっては意味のある1冊となっている。そして、今になってより意味を持つ1冊になっていくものと思われる。そう自分で思いたい心境にある。

 

やまだようこさんの著作物と出会ったのは、今から約8年前になる。

ちょうどそのころは、自分が大学生になったころ。入学した大学で出会ったスポーツメンタルトレーニングを専門とされる先生との出会いがきっかけだ。

その先生は、“質的研究”“質的心理学”を主軸に研究されており、スポーツメンタルトレーニングを専門としながら、心理学全般にも詳しい方であった。

僕自身が大学に入学し、学ぼうとしていた一番の目的の分野ではなかったものの、所属していた学科の縁もあって、その先生とは講義以外でも研究室に度々足を運ぶようになった。メンタルつまりは心の分野を扱われる先生であったこともあり、特に用がなくても空きコマに研究室へ行き、いろいろな話を聴いて頂いた。

 

先生との会話、いや対話という方がしっくり来る。

それらの対話を通じて、先生から「意味づけ」「語り直し」「生き直し」「シンクロニシティ」etc.といった心理学的用語を教えて頂いた。当時の僕にとっては、目からウロコで、それまでは言語化できなかった事柄についても、少しずつ整理していくヒントを得られたように思う。

 

先生との出会いは、2014年。大学1回生のころ。2015年の1月頃は1回生の秋学期だった。そのころは、2年間の浪人を経ての1年目の大学生活に慣れというか、贅沢な悩みというかどこか味気無さ、息切れなのかわからないが、休みや遅刻などが増えていた。春学期のような緊張感はなくなり、バーンアウト感もあったかもしれない。それかシンプルに怠け、甘えか。1月のある日、僕は大学にもいかずに、1人電車に乗ってふらふらと出かけた。モラトリアム的なやつか。たしかその頃は、少し気になる女の子(友人)がいて、その子の相談にのったり、夜に長電話したりと“距離感”が近かったように思う。それは僕が個人的に振り返ってそう思うのだけど、距離感が近いと、僕にとっての心配事や気になり事ではなくても、共感してしまいやすくなる。僕の場合、多少なりとも好意を寄せていたから、余計にそうなりやすかったのかもしれいない。

 

ここまで書いていて、先生はどこに行った?となってしまうが、僕の文章では脱線や寄り道が多くなってしまうので、ご理解願いたい次第である。

 

そうそう、その女の子に好意を寄せていたが、その子には別の好きな人、好きというか彼氏がいたのである。僕は、その子が彼氏に対して抱く思いについて話をよく聞いていた。叶わない恋だったのである。それは、ある種の“喪失”感であった。

 

そうしてふらふらと寺院を巡ったり、歩いて書店に入ったりしたタイミングである本とであった。

 

早稲田大学社会学の教授、ハーバード大学での准研究員、現在は心理学者である加藤諦三(かとうたいぞう)さんの著書『対象喪失の乗りこえ方』(大和書房)である。

 

表紙に一かじりされたリンゴのイラストがあり、それが印象的(当時、僕が好きだったバンドがリンゴをモチーフにしたグッズや楽曲を出していたこともあり)で手に取ったのだと記憶している。

 

そこで初めて「対象喪失」という言葉と出会った。きっかけは、ただの失恋だったが、あの頃の僕は「対象喪失」という言葉に釘付けになっていた。恋愛だけでなく、様々な事象と深く関係のある“喪失”体験というものを知った瞬間だった。

 

それで、話は戻り、僕は先生を訪ねたのである。

 

対象喪失」という言葉について聞きたかったから。

 

加藤諦三さんの本は、その頃他にもいろいろ買って読んだのだけど今は1冊も手元には残っていない。でも、久々に思い出して、あのリンゴのイラストの本はまた読んでみたくなってきた。

 

ここまで書いて、約1時間くらいになる。今は、13時06分。2022年2月28日の昼下がり。後で書くが、今日は訳あって仕事を休んでいる。外は、青く晴渡り、先週の寒さもどこへ行ったのやら。花粉はまだ少ないらしい。お腹も減ってきたから、昼ご飯にしようか。洗濯していた敷布団や衣類を干さないと。この記録を書き終えるか、途中で出かけるかも迷い中。でも、人生は瞬間瞬間が選択の連続である。今この時も。

 

トイレにも行きたくなってきた。じゃあ、行けばいいのだ。

 

かなり不定期なこのブログ。有難いことに今現在で読者の方がお一人いらっしゃる。インターネットという大海に、とりとめもなく流した僕の記憶・記録・言葉を目にしてくださったのは不思議なことかもしれない。星の数ほどある誰かの文字の羅列から、クリック・タップして訪れてくださることは偶然かもしれないが奇跡かもしれない。別に誰にも見せたくなければ、そういう設定もできるし、そもそも紙ぺらに書き出すなりするという方法もある。ただ、今の自分はこういうカタチで過去の出来事とそれに伴う意味づけをブログを利用して行うのである。誰かに強制されることもなく、自分がそうしたいからするだけである。そうして、その意志の中に自分とどこか似た思いをもった誰かに届いてほしいという思いもあるからこそブログなのだと思う。自分が書き出すことで、自分は思いを一度視覚化し、手放すのである。過去の記事も日が経てば、果たして何をどのように描いたか忘れてしまっている。読み返して、そんなことも書いたなぁと薄っすら思い出す程度の感覚。それに、1回書くとかなりの文字数になっている気がしているから、もし読んでくださる方がいたらどうか適当に読み流して頂ければと思う。こういう人もいるんだなぁという感じで。

 

インターネットで発信することは今やSNSを介して容易となっている。発信し、開示していくことのハードルは低いが、このブログでの内容はかなり自分について裸に近い感覚で言語化を試みていることもあり、その点で普段利用している他のSNSとは一線を画しているように思われる。

 

では、ここで一旦休憩しよう。(13時25分2022/02/28)