双子座眼鏡男子の生活と記録〜誰もが自分の人生という物語のヒーローである〜

高校卒業後、2年間の自宅浪人期間を経て、大学入学。そして、社会人として今を生きる自分自身の記録。

【喪失の語り#3】

「居場所」

2022年3月4日、金曜日。午前10時12分。晴れ。

 

少しずつ春が近づいている気がする。

ただ、それは花粉の訪れでもあるため、その点で油断は禁物である。

このご時世だと、コロナなのか風邪なのか、はたまた花粉症なのかという部分が紛らわしくもある。何より健康第一を心がけたい。

 

では、本題の続きへ移ろう。

 

前回#2の最後は、ちょうど深夜に母のスマートフォンに電話が入ったところ。

 

深夜2時30分前くらい。

電話が鳴り、一気に眠気から覚める。

僕も母も、「きたか、、、」という心境であった。

父が入院していた病院の看護師からの電話だった。

「心臓の鼓動が弱まっているので、病院に来ていただきたいのですが」と看護師は言う。

「はい」と返事をし、病院に向かうことを伝え、電話を切った。

僕と母は、すぐに身支度を整えて病院に向かう準備をした。

近くの家族も起こして、一緒に病院に向かった。

 

その半日前は呼吸器に繋がれながらも、息をして、鼓動も安定していた父。

しかし、病院に駆けつけたときには、父の心臓は止まっていた。

 

そんな父を目にする前、病室の前でのこと。

一人の看護師さんが「どこで葬儀をされるかお決めになっていますか?」と。

電話で鼓動は弱まっていると聞いてはいたが、その父が息を引き取ったのかはまだ確認はしていない状態で、そのような質問をされるとは思っていなかった。

ただ、その質問への違和感や疑問を看護師さんへ投げ返すこともなく(後々振り返って、あの瞬間で聞くべきではないのではと家族同士で話していた。)、「まだです」とだけ答えた。

そして、父と対面した。

 

繋がれた心電図の波形は直線で、父も呼吸をしていなかった。

 

昨日に面会をしたのは2回。

自分が記憶していたことで、握った父の手は1回目と2回目でもわずかに体温は違った。2回目のときの方が冷たかった。

 

周りの家族は、そのときもまだ父が奇跡的に目を空けることを祈っていた。僕も祈りたかったが、その時の手の感覚から、父は少しずつ弱っていっているように思っていた。

 

そうして、父はこの世を去った。

母をはじめ、僕やきょうだい、心配をしていた家族たちを残して。

 

深夜3時前の出来事であった。

 

医師から父の死を告げられ、僕たちは一度待合室へと移動した。

その間に、父は身なりを整えてもらうことになった。

 

と同時に、僕は何か物思いにふけることもなく(できず)、先にあった看護師さんからの言葉通りに葬儀屋へ連絡をすることになった。

 

実家からそれほど遠くない場所にある葬儀社。

祖父のときにも父が頼んでいたところ。まさかこんな早くに自分が連絡することになるとは思ってもいなかった。でも、そうやって事を進めていくしかなかった。

 

もしもの話、たらればの話になるが、

父がもっと年老いて、何かの病かなんかで死を予期させるような状態であったら、それに伴う心理的な、実際的な準備はまだできていたのかもしれない。

 

今回の出来事は、心配事の一つ、恐れていた事態としての思いごとであった。

それが現実のものとなってしまったというのは、本当にまさかの出来事であった。

 

普段耳にしていた有名人のそれや、テレビドラマのそれら。

他人事ではなく、実際の身に起こるとは思いもしなかった。

 

 

葬儀社の手配が落ち着き、担当の方が病院に来てくださるまでは、小一時間ほどの時間があった。そこでやっと僕も腰を下ろして、家族と話すことができた。

 

ただ、話すと言っても、そこに前向きな言葉などはなく、

先に自ら逝ってしまった父への思い、迷い、不安などなどの言葉であった。

 

僕は、自らの喉を潤したいことと、家族もと思い、自動販売機で人数分の温かいお茶を買った。別に買わなくても良かったけれど、あの時間でできることはそれくらいだった。あとは、母や家族の話を聞いたり、寄り添ったりすることであった。

 

時間は経ち、葬儀社の方が来てくださった。

そのときに、来てくださったのは祖父の葬儀を担当してくださっていた方だった。

その方も、今回の父の死を知って、驚かれていた。

僕たち家族は、家族以外の父を知る方と出会えて少しの間ほっとしていたように思う。日々、仕事として事情はどうあれ亡くなった方やその家族と向き合われていることはすごいことだと思う。

個々人に差はあるだろうが、駆けつけてきてくださった葬儀社の方は、とても落ち着かれており、ゆっくりとお話をされ、それ以上にこちらの話も親身になって聞いてくださった。そのことにあのときは救われていた。

 

亡くなった父は、その後一度家へと戻る(帰る)はずだったが、ここでも立ち止まる出来事は起きた。父と同じ病室にいた患者さんが、コロナの濃厚接触者にあたることがわかったのである。検査などで陰性がわかったが、医師等での最終確認ができるまでは、父は霊安室(死体安置所)へとどまることになった。

 

その際の、葬儀社の方との話だと、最悪の場合は、父は家にもどってこられないとのことであった。ただ、現状は陰性であるから、そのケースには及ばないだろうということであった。これが、もし2年前のことであったら、まだコロナへの対応策もままならなかった状況であり、おそらく父とは火葬場でしか会えなかったかもしれない。だから、そういう点ではまだ救われたと思う。実際に、その後、父は無事に家に帰ることができた。本当に良かった。

 

 

 

さて、このパートもここらへんで一度休憩しようか。

 

ちなみに、今日の僕はまだ仕事を休んでいる。

仕事を休んで、あの先生の研究室にいる。そこで、この文章を書いている。

仕事には、来週の月曜日には戻ろうと考えている。何度も何度も言うが、僕の仕事へ行くこと、働くこと、生活をしていくこと、生きていくことは、今回の父との死別という出来事の有無に関わらず、僕の一生のテーマのひとつである。

 

父の死は、僕の人生の出来事のひとつとして、大きな影響をもたらした(今もなお、、、これからも?)が、自分の人生は続くのである。

 

目下の課題といえば、やはり働いてお金を稼ぐ必要はあるのだ。

職場に、上司に、職員の方々に、迷惑も心配もかけているという事実に変わりはなく、加えて、僕の不安定な部分を知る家族にも心配や迷惑をかけている。

その事実を受け止めること。不安定な自分を受け止めること。

今はそうかもしれない。でも、今からのことはこれから変えていける。

否定せず、責めることもせず。謝ったり、お礼を言ったりはあるだろう。

言う以上に、行動で示していくことには時間も必要になるだろう。

それでも、焦らずに行こう。

僕は、僕という人生は、僕にしか歩めないから。それは、一人ひとりそうであるから。

今日も生きている。感謝の気持ちを忘れずに。

家でもなく、職場でもないが、安心できる“居場所”を与えてくださった先生に感謝である。

そのおかげで、今という時間に自分の喪失体験と向き合うことができているから。

社会人としては不完全(完全なことはないけれど)だけど、僕は今日も生きている。

(12時11分2022/03/04)

 

 

 

【喪失の語り#2】

「手放すこと」

今日は、2022年3月2日。午前11時14分。晴れ。

前回の記事から2日間が経過した。いったい休憩とはなんぞや。

 

前回の続きになるが、寄り道の多い文章でどこから書こうかと迷子中。

忘れてしまった部分もあるし、2日前に書こうとした着地点でさえ、あやふやになってしまったようだ。あいまいな自分。人間はあいまいな生きもの。あいまいになりやすい生き物かもしれない。あいまいな世界に生きている。

 

過去の話ばかりになったから、改めて比較的新しい過去の話に戻そうと思う。2日前の記事で、その時も訳あって仕事を休んでいると書いたが、今日現在も平行線である。つまり、休んでいる状態。

 

ただ、忌引休暇というか服喪休暇というやつの範囲になる。

 

ここから先の文章に少々ショッキングかつ重たい文章になるかもしれない。その感想や印象は、読み手の方の受け取り方に委ねる他ないのだけれど、念のため書いておく。誰かに見せること、公開することなのか、是非はわからないけど、今の自分はここに書き出すことで、今の感情を手放そうと思う。

 

僕の2つ目の投稿で、1月頃は仕事に行けていない状態だと記していたのだが、その後は凸凹ではあるが、復帰することができていた。つい最近までは。

 

復帰の背景には、きょうだいなど家族の心理的な支えや自分自身の生活の工夫などが挙げられる。特に大きかったのは、実家で暮らす父があまり体調が良くなく、自分自身は実家を出ているため、できることは最早、自分がしっかり仕事に行くことで両親や家族に心配をかけないことくらいしかなかった。そのことを、きょうだいからも言われていた。「仕事に行くことが親孝行」であると。そして、僕の働く部分の不安定さについてはきょうだいだけが知ってくれているカタチで日々が過ぎていった。

 

そんな矢先に、父が亡くなった。

自死であった。自宅の寝室の物干しにベルトで縛って、首を吊ったらしい。

らしいというのは、このことは一緒に住んでいた母をはじめとした家族から聞いたからである。それを目撃したのも同じである。

その日の午前中の出来事だったらしく、母は救急に連絡するのが精一杯だったが、別の家族がベルトをハサミでなんとか切った。その後、救急隊によって心臓が動き出した。そして、父は病院へ搬送された。

 

僕が父の顔を見たのは、その日の午後。

 

先にもあげた、今の僕にできることは1日1日働くことだという思いで、いつも通りその日も働いていた。もうすぐお昼休みに入るというころ、職場に一本の電話が入った。

「親戚の方から電話ですよ」と、職員さんから電話を受け取る。その瞬間に、僕は嫌な予感がしていたけど、的中してしまうとは思ってもみなかった。

 

なぜ的中してしまうかというと、その日以前にも父は心を病んで、自宅で何度か自殺企図を試みていたからである。そのことは、家族から状況として知らされていた。そのような状態にあって、父もメンタルクリニックに母や家族と行ってみたり、服薬治療にあたったりしていた。主治医との相性もありセカンドオピニオンに向けて動いていた矢先であった。コロナ禍も災いしたのか、家族が見た感じでは明らかに痩せこけた父でいても、病院での検査で数値的な以上が無ければ入院も難しかった。薬の副作用なのか、睡眠不足をはじめとした心身の不調なども重なった。

 

昨年末に父と出会ったころも体調があまり良くなかったのだが、年があけてのこの2ヶ月の変化は大きかったように思われる。

 

病室にも、基本的に面会は1人ずつ。入るにもコロナ感染防止の観点から、防護服まども必要であった。

 

父は、呼吸器をつけた状態で息をしていた。目を閉じていた。そこに僕の知る父はいなかった。居たのは、血の気の引いた顔色で目を閉じて、呼吸器をつけた父の姿だ。

 

今こうして文字に起こしていると、その時を鮮明に思い出す。思い出すことが、僕自身の心にどう作用するかはわからないけど、今はそうすることがいいように思う。

 

誰からの同情も必要とせず、ただ文字に起こして、自己対話している感覚。

 

その日は、結局、父の状態(脳死状態)は変わらず、病院の待合室の待機時間一杯まで母と二人残り、一度実家へ戻ることになった。もし、父の状態は急変したときは、担当看護師から電話連絡が入ることになっていた。

 

その夜、僕は母と身を寄せ合って眠りについた。

自分は元より、あまりにもショッキングな現場を目にした母は、一人で寝るのが怖かったのである。近くにいながら、父の行為を止められなかったこと、助けられなかったことを悔いていた。そんな母を僕は1ミリも責めようと思わない。母以外の家族も責めない。責めたところで父は生き返ることはない。

そんな状況を言葉にするだけでも、そうとうな負荷であるのだから。まだ、実際に目にしていない僕や遠くで住んでいた家族はその点ではダメージは小さいと思う。もちろん個人差はあるだろうが。

 

母と同じ布団で寝るなんていつぶりかと変に冷静に考える自分がいた。記憶にある部分で思い出す限り、小さいときでさえあの日ほど近くで寝たことは無かったように思う。

 

枕元に自宅電話の子機、母のスマホを音量を上げたままで置いて眠りについた。

 

父のことをいろいろ思い出しながら目を閉じた。そうしてウトウトしてきて、眠りについた。

 

だけど、スマホで起こされた。

 

午前2時25分ごろだったか。

 

 

 

ここで一度休憩しよう。

実は今日は、前回の記事で書いた大学時代の先生に会いにいっている最中。その電車の中である。もうすぐ電車が着きそうだ。

さて、どんな話をしようか。とりあえずお昼ごはんにしよう。

行ってきます。

続きはまた次回。(12時21分2022/03/02)

【喪失の語り#1】

「喪失の語り」

「喪失」「喪失体験」等々。

生きていく過程で、人は様々な喪失体験と遭遇する。

冒頭の「喪失の語り」とは、心理学者であり京都大学名誉教授でもある、やまだようこ(山田洋子)さんのことばだ。また、新曜社から『やまだようこ著作集第8巻 喪失の語り 生成のライフストーリー』として1冊の本が出版されている。

 

この本は、4,300円プラス税というお高い本なのだが、私にとっては意味のある1冊となっている。そして、今になってより意味を持つ1冊になっていくものと思われる。そう自分で思いたい心境にある。

 

やまだようこさんの著作物と出会ったのは、今から約8年前になる。

ちょうどそのころは、自分が大学生になったころ。入学した大学で出会ったスポーツメンタルトレーニングを専門とされる先生との出会いがきっかけだ。

その先生は、“質的研究”“質的心理学”を主軸に研究されており、スポーツメンタルトレーニングを専門としながら、心理学全般にも詳しい方であった。

僕自身が大学に入学し、学ぼうとしていた一番の目的の分野ではなかったものの、所属していた学科の縁もあって、その先生とは講義以外でも研究室に度々足を運ぶようになった。メンタルつまりは心の分野を扱われる先生であったこともあり、特に用がなくても空きコマに研究室へ行き、いろいろな話を聴いて頂いた。

 

先生との会話、いや対話という方がしっくり来る。

それらの対話を通じて、先生から「意味づけ」「語り直し」「生き直し」「シンクロニシティ」etc.といった心理学的用語を教えて頂いた。当時の僕にとっては、目からウロコで、それまでは言語化できなかった事柄についても、少しずつ整理していくヒントを得られたように思う。

 

先生との出会いは、2014年。大学1回生のころ。2015年の1月頃は1回生の秋学期だった。そのころは、2年間の浪人を経ての1年目の大学生活に慣れというか、贅沢な悩みというかどこか味気無さ、息切れなのかわからないが、休みや遅刻などが増えていた。春学期のような緊張感はなくなり、バーンアウト感もあったかもしれない。それかシンプルに怠け、甘えか。1月のある日、僕は大学にもいかずに、1人電車に乗ってふらふらと出かけた。モラトリアム的なやつか。たしかその頃は、少し気になる女の子(友人)がいて、その子の相談にのったり、夜に長電話したりと“距離感”が近かったように思う。それは僕が個人的に振り返ってそう思うのだけど、距離感が近いと、僕にとっての心配事や気になり事ではなくても、共感してしまいやすくなる。僕の場合、多少なりとも好意を寄せていたから、余計にそうなりやすかったのかもしれいない。

 

ここまで書いていて、先生はどこに行った?となってしまうが、僕の文章では脱線や寄り道が多くなってしまうので、ご理解願いたい次第である。

 

そうそう、その女の子に好意を寄せていたが、その子には別の好きな人、好きというか彼氏がいたのである。僕は、その子が彼氏に対して抱く思いについて話をよく聞いていた。叶わない恋だったのである。それは、ある種の“喪失”感であった。

 

そうしてふらふらと寺院を巡ったり、歩いて書店に入ったりしたタイミングである本とであった。

 

早稲田大学社会学の教授、ハーバード大学での准研究員、現在は心理学者である加藤諦三(かとうたいぞう)さんの著書『対象喪失の乗りこえ方』(大和書房)である。

 

表紙に一かじりされたリンゴのイラストがあり、それが印象的(当時、僕が好きだったバンドがリンゴをモチーフにしたグッズや楽曲を出していたこともあり)で手に取ったのだと記憶している。

 

そこで初めて「対象喪失」という言葉と出会った。きっかけは、ただの失恋だったが、あの頃の僕は「対象喪失」という言葉に釘付けになっていた。恋愛だけでなく、様々な事象と深く関係のある“喪失”体験というものを知った瞬間だった。

 

それで、話は戻り、僕は先生を訪ねたのである。

 

対象喪失」という言葉について聞きたかったから。

 

加藤諦三さんの本は、その頃他にもいろいろ買って読んだのだけど今は1冊も手元には残っていない。でも、久々に思い出して、あのリンゴのイラストの本はまた読んでみたくなってきた。

 

ここまで書いて、約1時間くらいになる。今は、13時06分。2022年2月28日の昼下がり。後で書くが、今日は訳あって仕事を休んでいる。外は、青く晴渡り、先週の寒さもどこへ行ったのやら。花粉はまだ少ないらしい。お腹も減ってきたから、昼ご飯にしようか。洗濯していた敷布団や衣類を干さないと。この記録を書き終えるか、途中で出かけるかも迷い中。でも、人生は瞬間瞬間が選択の連続である。今この時も。

 

トイレにも行きたくなってきた。じゃあ、行けばいいのだ。

 

かなり不定期なこのブログ。有難いことに今現在で読者の方がお一人いらっしゃる。インターネットという大海に、とりとめもなく流した僕の記憶・記録・言葉を目にしてくださったのは不思議なことかもしれない。星の数ほどある誰かの文字の羅列から、クリック・タップして訪れてくださることは偶然かもしれないが奇跡かもしれない。別に誰にも見せたくなければ、そういう設定もできるし、そもそも紙ぺらに書き出すなりするという方法もある。ただ、今の自分はこういうカタチで過去の出来事とそれに伴う意味づけをブログを利用して行うのである。誰かに強制されることもなく、自分がそうしたいからするだけである。そうして、その意志の中に自分とどこか似た思いをもった誰かに届いてほしいという思いもあるからこそブログなのだと思う。自分が書き出すことで、自分は思いを一度視覚化し、手放すのである。過去の記事も日が経てば、果たして何をどのように描いたか忘れてしまっている。読み返して、そんなことも書いたなぁと薄っすら思い出す程度の感覚。それに、1回書くとかなりの文字数になっている気がしているから、もし読んでくださる方がいたらどうか適当に読み流して頂ければと思う。こういう人もいるんだなぁという感じで。

 

インターネットで発信することは今やSNSを介して容易となっている。発信し、開示していくことのハードルは低いが、このブログでの内容はかなり自分について裸に近い感覚で言語化を試みていることもあり、その点で普段利用している他のSNSとは一線を画しているように思われる。

 

では、ここで一旦休憩しよう。(13時25分2022/02/28)

【10年後の自分に向けて】

一年以上ぶりの投稿。

 

2022年の1月7日、金曜日。

 

僕は、昨年末から仕事に行けていない。

有給休暇も使い切ってしまった。

 

つまりは、欠勤状態。

 

休むということに関しても、罪悪感というかそういうものが薄れてきてしまっていて、僕はこのままどうなってしまうのだろうかと思う。

 

前職は、適応障害で休職の後に退職。今の職場は、1年と少しくらいになるのだけれど。年度が変わって、人の入れ替わりとか配置替えとかもあって、夏ごろくらいに休むことがあり、何度か休まずにキープできていたんだけど、今は出勤ができていない状態である。

 

今も適応障害なのか…それか鬱的な何かとか、、、

出勤困難症みたいなとか

そういうことをつらつらと考えても始まらない。

 

自分は人間をするのが不器用だなぁと思う。このフレーズは、多分、又吉直樹さんの『人間』に出てきた気がする。

 

誰かに雇ってもらうというのは、メリット・デメリットがある。自分だけで働くというのもメリット・デメリットがある。

 

この世というか、日本だけみても、仕事っていうのはいろいろある。

僕もアルバイトとかから今を含めても、5つくらいしかやったことがない。知らない世界が山ほどある。

 

人間関係とかって面倒くさいけど、面倒くさい以外のこともある。自分の大好きな人と過ごす時間は楽しいし、そういう人のために使う時間は価値があると思う。

 

どんな仕事も誰かの世の中の役に立っているとも思う。

 

このブログの1投稿目のYouTuberについての記事。多分、そういう風に働いている人達が羨ましいから書いたんだと思う。YouTubeを本当に仕事としてしている人、趣味でしている人、いろんな思考でやっている人がいる。

 

YouTubeでなくてもフリーランスっていうのかな、個人事業主というカタチ。自分のペースで働いていく。このカタチは、今の世の中ならスタンダードとは言えないものの増えてきていると思う。まぁ身近にそういう人がいないから未知な感じがするのも事実。

 

僕の好きな芸人で、霜降り明星さんがいるけど、粗品さんは個人のチャンネルでゲーム配信していて、スーパーチャットという投げ銭をめちゃくちゃ貰っている。好きなゲームをして、お金をもらえるってシンプルにすごいなぁと思う。

 

誰かに雇ってもらって、お金を稼ぐ生き方もすごいし、素晴らしいけど、自分で仕事なり、価値あるものを生み出して働ければ、それってもっと最高じゃないかって考えるのである。

 

自分に合う働き方がない、見つけられないのなら、自分でつくる、生み出す他ないのではないか。

 

僕の好きな書道家さんの武田双雲さん。

 

昨年末に個展に行って、初めて本人も見たのだけれど、彼のその人も作品にもパワーがみなぎっていてすごかった。彼の芸術作品は、お金の価値で表すべきものではないのかもしれないけど、僕からしたらまぁそれはすごい金額で販売されていて驚き。

 

作品そのものの価値でもあり、それを生み出した武田双雲という人の価値でもある。

 

人の価値というと、どんな人にも価値はある。良く耳にする「生きているだけで価値がある」と。でも、生きていくことは簡単なようで簡単ではないのかもしれない。

 

今はいろんなメディアで情報を取り入れることができる時代。コロナも相まって、ホームレス生活の人が増えたとか、それに近しい人がどうだとか。でも、そういう人を見ても、今の自分には手を差し伸べるほどの力も、勇気もない。自分の生活をどうこうしていくので精一杯だから。

でも、もしその一定のベースがクリアできているのだとしたら、自分以外の人の人生に良い影響を与えていけるではないか。その一つが、お金の有無であるのも事実。お金の価値なんていくらでも変わるが、戦後から見たら大きく変わることもなさそうか。でも、この先の未来の世界に何が起こり得るかは誰にも予測できないから何とも言えない。

 

アラサーの僕を育てて、大学4年まで、特にお金に関して何不自由なく育ててくれた両親。家を守った母、自営業で外の力仕事で働いた父。二人とも60代を越えていて、なんならこの先は自由に気ままに生きていてほしいと思う。でも、実際は、今まで続けてきた仕事も身体に支障がきて続けられなくなってきて、今後は年金頼りの生活になる。日本というそういう社会の中では仕方ないのかもしれない。でも、子育てをやり切るってすさまじいことじゃないか。報奨金が出てもいいぐらいのことじゃないかと思う。わが子をしっかり育てたのに、その先の人生がしょんぼりするのってなんかやるせないなと。

 

両親には両親の人生があるから、僕からしたら自分たちの人生は自分達で何とかしてほしいとかも思うけど、自分も育ててきてもらった恩があるから、できることならば楽させてあげたい。自分にとって大事な存在だから。でも、今はそういうことができる状況でない。から、これからどうしていこうかという話。

 

セルフカウンセリング的な投稿になってきた。僕のこれまでを全く知らないからこそ話せることもあるよね。知っているからこそ話せない、話したくないこともある。巷では、“聞き屋”として頑張っている人もいる。実際に人と会ってやっていくのって凄いと思う。

 

この記事を書きながら、YouTuberヒカルさんの動画をBGMにしている。炎上もした人だけど、ビジネス、ゲーム配信、アパレルなどなどをやり、慈善活動などもやっている最近。賛否両論の多い方だけど、自分の軸をもっている方だと思う。失敗もたくさんされていても、その分、行動に起こして成功を積み重ねている方。話を聞いていると、批判的な思考が強みなのかなと思う。「この人にできるなら、僕にもできるんじゃないか」とヒカルさんが語っているように、自分ならできるという思いから行動しているからすごい。ヒカルさんの例え話で、アニメとかマンガの話を耳にする。彼は、自分の人生をある種ゲームのように楽しんでいるんじゃないかと思う。人生を遊びに、仕事を遊びに、というのは僕の実現したい人生のテーマでもある。

 

僕の今の悩みって、、、最初に書いた今仕事に行けてないってことよりも、働かないからお金を生み出せていないわけで。それによって、今後の家賃などの支払いが心配なのである。ここがクリアできれば、そこまで不安感はないと思う。現状、暖房のある部屋でこの記事を書けているからすぐさまどうにかなってしまうことではないけど。そうした今がもしかしたらなくなってしまうのかもという怖さがあると思う。

 

それのもとに、今の出勤できていない状況があって、いろいろ考えてしまう自分。甘いなぁと思う。

 

うだうだ考えずに、復帰して働くのか。

まだ休むのか。

辞めて、違う道を行くのか。

それとも、まだ見ぬ別路があるのか。

 

現状、一人ぐらし。お付き合いしている人も子どももいない。

そういう面では自由ではある。でも、将来は自分にとって大切で一緒に支え合っていきたいと思えるパートナーと生きていきたいし、子どももほしい。

 

だから、今はそのときのための考える時間なのかもしれない。

 

今年は、いろんなこと、もの、はたまた人の整理の1年にしよう。

一番は、考え方の整理だと考えている。

 

どんな状況に居ようと、明るく前を向いて元気でいられる人もいる。僕の今の状況だって、どこかの誰かの今に比べれば大したことがないだろうし、なんとでもなると思う。

 

そういう意味では、良く芸人の方が「借金○百万」とか言ってても、不思議と暗さがないという現象と同じで。むしろ楽しそうな生き方にさえ見えてしまう。この話は、芸人の空気階段モグラさんをイメージしたんだけど。先ほどの粗品さんもしかり。

 

何事も自分次第。生き方、考え方、感じ方、見方、聞き方。

 

自分以外は自分の人生を生きられないのだから。

 

僕の行く道のゴールを知っている人はだれもいない。旅の終着点を知る人はいない。だから、まわりの人のいうことにいちいち振り回されなくていい。自分で選べばいい。

 

結局のところ、休むとかどうとかも選んで今があるから。自業自得なんだよね。

 

自分とはいったい何かって考えると、物質的な視点で考えると人間、男性、アラサー。身長とか体重とかどうのこうのなんだけど。

それよりも大事にしたいのは、自分は何が好きで、どうしたいとかどう考えるかということ。それが自分自身であると思う。

 

好きな言葉、好きな人、好きな食べ物、好きな場所、好きな飲み物、好きな音楽、好きなスポーツだとか。

 

好きという力は無限大だと思う。

 

僕の好きなアーティストは、UVERworldさん。中学生のころから好き。

そんなに長い間、CD買ったり、ライブ行ったりとか自分でも不思議。

ボーカルのTAKUYA∞さんは、42歳。生き方がかっこいい憧れの存在。同じくUVERworldのメンバーみんなもね。彼らの作る音楽に助けられてる。

いつか、どこかで会ったり、それこそ仕事でご一緒できたりしたら嬉しい。

 

この記事のタイトル【10年後の自分に向けて】なんだけど、果たして10年後の僕はどうしていますか?

 

自分にとってのやりがいのある仕事をして、お金を稼いで、生き生きと生きていますか?

 

自分の事だけでなく、自分の近くにいてくれている人も幸せにできていますか?

 

そして、何より今日という日を「そんなころもあったなぁ」と笑い話にできていますか。

 

2032年の1月7日ごろに、また会いましょう。

 

偶然にも、この投稿に辿り着き、読んでくれた方、ありがとう。それぞれの路を生きましょう。まだまだこれからです。

 

 

【YouTubeの今に思うこと】

YouTube。ユーチューブ。ようつべ。

 

いろいろ言い方はある。

YouTubeに動画を配信する人。配信者。

YouTuber。ユーチューバー。

 

小学生が将来なりたい職業ランキング上位にいる。

そんな時代。

 

僕自身は、見るの専門ではあるのだけれど、、、

再生回数うんぬん、登録者うんぬん、広告収入うんぬん、

そういう仕事もあるのかーともちろん興味はある。

どこか羨ましさも感じている。

 

僕が中学生だった10年以上前は、テレビ番組の録画を誰かがアップロードされているか、外国の方の動画が多かったような。部活でバドミントンに打ち込んでいたから国内外の選手のプレーを見て勉強していたのが中心だった。

 

高校卒業前後の2010年前半に、携帯電話がガラパゴスケータイから、スマートフォンに移行し始めるようになった。パソコンで見るのが当たり前だったところから、いつも手にしているケータイでYouTubeが見られるようになった。

 

かくいう自分は、2014年に大学生になるまでは、SONYから発売されたウォークマンで見ていたのだけれど、、、。Android搭載ウォークマンZで。思い出すと懐かしい。

あの端末で、夜中にオレンジデイズという妻夫木聡さんと柴咲コウさんが主演のドラマを見ていた。いつかくるはずのキャンパスライフを夢見ていたんだと思う。

 

スマホになったことが、今のYouTubeの勢いの火付け役になったのだろう。

YouTube以外にも、TwitterInstagram、LINEなどなどのSNSも。

インターネットへのアクセスのしやすさ、繋がりやすさが一気に加速した。

 

僕がYouTubeを見始めたころの有名な配信者というと、

HIKAKINさん、MEGWINさん、PDSさんとかかな。

HIKAKINさんなんか今や神と崇められている。ちびっこが会えたら目をキラキラさせている。芸能人ではないけれど、有名人。影響力ももっている。スゲーなーほんとに。

 

最近は、グループ系、カップル系とかカテゴリーも豊富になり、ましてやテレビで活躍していた芸能人までもがYouTubeに参入している。

ある種素人であった人が、YouTubeという世界においては登録者数という指標のもとに置いて対等に評価されているようにも思う。

それほどまでに、YouTubeが様々な人の生活の近くにあるということなのだろう。

 

僕自身、仕事から帰ってきて、晩飯を作って食べるときにはスマホかパソコンでYouTubeをつけているのが日常。

筋肉系YouTuberのぷろたんさんの爆食いを見ると食が進む。一人暮らしだから寂しさを紛らわすために、だれかが話している動画も多い。

 

だれかの切り取られた日常に勇気づけられている。

笑顔をもらっている。

 

YouTubeがあって良かったな。

YouTuberさん、ありがとう。

 

この初めてのブログ記事も、大好きな瀬戸弘司さんの動画をBGMに書いた。

瀬戸さん、ありがとう。

 

もし、このブログ記事を読んでくださった方がいたら、、、ありがとうです。